あの年、東京・南青山の大坊珈琲店にて

【 東京 南青山 / 大坊 珈琲店 / 台湾 】

(日本語翻訳=シンカ、Kotaro)

2006年5月22日、私(台湾人)は 東京にいました。初めて、大坊珈琲に出会いました。

「大坊珈琲店」 は南青山の青山通りにあり、表参道交差点の左側にありました。

私は1999年から毎年一度、5月もしくは10月に時間をつくって、日本旅行に行きました。1999年はちょうど、本屋で働き始めた年。

旅行といっても、行き場は本屋ばかり、さまざまな書店です。あるいは、文学館や美術館。とにかく、仕事に関わるものや、好きな作家に関係するものとイベントに注目していました。

それからの数年は、東京に戻るたびに、表参道の路地内にある「クレヨンハウス」の絵本屋と神保町が定番の行程になっていました。

2006年5月下旬、再び東京にやって来ました。

私はクレヨンハウスで本を買って、道を渡ってぶらぶらしていました。

向田邦子が住んでいたアパートの近くを歩いてみようと思っていたのです。

数歩も歩かないうちに、「大坊珈琲店」の看板を見つけました。

その珈琲店は古いアパートの2階にあるようです。

見上げると店の名前の5字が、建物の外壁に掲げられています。 たしかにちょうどコーヒーが飲みたい。

でも、2階にあります。少しぐずぐずしてから、上階に行くことを決めました。

階段を上ると珈琲店のドアが見えましたが、普通のアパートの事務所に似ていて、もう一度ためらってから、そっとドアを開けました。

目の前に広がる光景は、何年も過ぎた今でも、忘れられません。

ええ、長い月日を経ても。

いま思い起こすと、まるで小さな舞台劇場のシーンのようです。

四方の壁が暗くて、かすかなライトが点っています。

銀髪で、白いシャツと黒いエプロンを身に付けているのが、咖啡店のマスターでしょうか。

彼はカウンターに立っていて、目と目が合うと、少しうなずいていました。

自分は、遅れて入場した観衆のようです。身を縮めようとすると、余計な動きがかえって、音になってしまいました。

店内で目が光に順応してくると、あまり広くない、ひっそりとした感じの空間があることが分かりました。満席ではないようです。

前方の窓側の4人席が空いています。 マスターはその席を指し示しました。

私は移動して着席しました。

喜びを抑えて、静かに椅子を動かします。

周囲が静かです。空間の色味は、私が大好きなダークブラウンで、落ち着いています。

壁の上に価格表が堂々と陣取っています。たしかにシンプルで分かりやすい。

コーヒーの濃度の選択は、グラム数で割ります。

こんなやり方を初めて見ると、思わず凛としてしまいます。

私の限られたコーヒーに関する知識をフル動員すると、どうやら5つの選択ができるようです。なんだか数学の公式のようですが、ん? ほかにも果汁、そして酒を選べるようです。なんだか少し安心して、思わず笑みを浮かべます。

注文してから、店内に視線を移してみました。

後ろに本があって、しかも私が好きな本でした。

ちょと大きめの陶器瓶に花と草が活けられています。とても自然なたたずまい。

他のお客様は、中年、そして高齢の方が多い様子です。

ある人が話しています。

小さな空間なので、周囲の音がまるで素朴なコットンを濾過したかのように、こっそり話しているような、かすかな物音になって聞こえます。

揺れ動く空間に、ときに広がり、ときに空白となります。

じっと見つめている人もいます。

停滯した雰囲気ではなく、敬虔な態度です。

形容しがたい、独特の空気が流れています。

集中する。そうです。

コーヒーを入れることに集中する大坊さん(以下このように呼びます)と、大坊さんの動きをじっと見つめるお客様です。

首を少し下げて、肩から背中は一直線になり、コーヒーを入れる手と綺麗なラインを形成しています。ネルドリップを握って、立ったまま細い水柱を見つめる大坊さんは、静かで巨大な力を放っています。

初めてここに来る機会に恵まれた私は、この場所に座り、こうしたすべてを受け取ることができました。

目を動かします。

こっそり、音を立てないように。じっと見つめるのは申し訳ないような気もしますが、目を離せません。

このような雰囲気のなかで、カメラを出したら失礼なことは分かっています。でも、目の前の風景を心に残しておきたい。

バッグからノートを静かに出して。すぐに、すぐに出します。私の目に入った全てを描きます。

その間に、大坊さんが目線をこちらに向けて、私のデッサンに気がついたようです。

もしかすると、私自身が彼をずっと意識していたからかもしれません。

そうだとしても、多くの小さな珈琲店のマスターと変わりはありません。目の前の珈琲の準備に集中しながら、お客様の一挙一動にも目配りしているのでしょう。

私は少し申し訳ない気持ちで微妙な笑みを浮かべましたが、身を隠す術もなく、わずかに頭を下げました。

その直後に、コーヒーが出来上がりました。

写真にある本は、2013年12月末に大坊珈琲店が営業を終了したとき、大坊さんが38年来の数々の思い出を記録して、自費で1000冊を出版し、常連客と親しい友人に贈呈したものです。

自分のは、その1000冊のうちの一冊ではありません。

2015年に日本のAmazonで購入したもので、誠文堂新光社があらためて出版したバージョンです。

2006年5月下旬に初めて大坊珈琲店を訪れてから2年が経った頃、東京に行きました。

予定が詰まっていて、台湾に帰る前日はちょうど週末でした。その日は、雨が降っていました。

一日歩くと(私の旅行中はほとんど歩いていた)、心身の疲れはありましたが、心の中に表参道に立ち寄りたいという得も言えぬ思いがありました。そこでもう一度、大坊珈琲店に向かいます。

週末の夜はお客様が多いですが、今回はカウンター席に座ります。

初めて大坊珈琲店に来たときにカウンターでもらった名刺を出しました。

カウンターにいる店員さんに聞いてみました。

「大坊さんは今日は不在です。」

失望を感じながらコーヒーを飲み、台湾に帰りました。

その後の数年間は、仕事と生活が変化して、次に東京に来たのは、もう2013年10月下旬のことです。

2歳になったばかりの娘を連れた私は、再び大坊珈琲店に行こうとしましたが、子連れは適していないかもと考え、諦めてしまいました。

何と言うべきか。

その年の12月、日本のネットで思いがけず、大坊珈琲店が営業を終了するというニュースを見ました。

建物が古いので営業が続けられないということでした。

その時の私の慚愧の気持ちは、なんと言うべきか。

2ヶ月前に、再訪を諦めてしまった気持ちを強く意識していたからです。

それに、まだ台湾に戻ったばかりなので、すぐに行くことはできません。 私にとって、とても残念なことでした。

でも、どうして。

たった2回しか行ったことがない珈琲店と、1回しか会ったことがない珈琲店のマスター。

しかも話したことさえ、ありません

もしかしたら、人と人の間には、ある種の精神的な共感というものがありえるのでしょうか。

それは言葉や感情、経歴など一切を超えて純然と散発する力であって、私が初めてこの珈琲店に足を踏み入れてからずっと、静かに私の心の隅にあり、長い時間を経た後で不意に立ち現れたのかもしれません。

奮い立たせるものでも感動でもなく、ただ、純粋たる力です。

私が生活のなかで苛立っているときなどに、たまにこの力が現れると、次第に心が落ち着いてきます。

だから、2015年に大坊さんの本がAmazonで買えることを知ったとき、迷うことなくすぐに注文しました。本を受け取った後は、やはり日本語をもっと勉強しなければとの思いに駆られました。大坊さんが書かれた内容をもっと深く理解したいから。

今年(2019年)9月、台湾の出版社である銀河舍が、大坊勝次氏と森光宗男氏(福岡の老舗カフェ「美々」のオーナー)の対談集『珈琲人生』(原書名は『珈琲屋』)を出版し、望外の喜びでした。

 

この数年間、心の中に後悔が残っていて、それがまるでコーヒー豆を煎るときの芳醇な香りのように、やさしくまとわりついていたのですが、僅かに温かい陶製コーヒーカップを静かに置くと、ふと感謝の言葉をようやく口に出すことができました。

ありがとうございました、大坊珈琲店。

追記:

その年、初めて大坊珈琲店に行ったとき、私は三十数歳でした。

コーヒーの滋味やお店の雰囲気がとても心を打ちましたが、あの時はまだ若かったので、気軽にそんなことを言ってはいけない気がしていました:

「本当にいい珈琲店ですね」こういう言葉を口にできなかった。

私の人生も50年目となり、ようやく大坊珈琲店の記憶について短い文章を書き終えるのと同時に、

大坊さんの本を読んでみると、自分と思想的な共感を持っていることに驚きました。

今ならたぶんこう言えると思います:

「ああ、ここは本当にいい珈琲店ですね。」

*写真は以下から引用

《大坊珈琲店》,大坊勝次。誠文堂新光社。

《咖啡人生》,大坊勝次/森光宗男著,葉廷昭譯。銀河舍。

*日本語版:『 珈琲屋 』, 大坊勝次/森光宗男

 

 

 

 

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